王振鵬(1280頃-1329頃)、浙江永嘉の人、字は朋梅、元仁宗に孤雲処士という号を賜った。秘書監典簿に任じられ、累官して漕運千戸となり、界画で世に名を知られた。この作品には、〈東京夢華録〉巻七に記載されている史実─北宋時代、皇帝が清明節に開封の金明池を訪れ、様々な庶民の娯楽や見世物、龍舟の競争などを見た様子が描かれている。巻末の署款によれば、元武宗至大3年(1310)の作で、非常に細密な線で宮殿や楼閣、大小の龍舟が描かれ、それらと共に様々な娯楽や見世物などでにぎわっている市中と庶民の暮らしぶりも描かれており、元代界画の傑作である。
宋代以降、貨郎図はよく絵の主題となった。無名款の本作には、郊外の庭園の花をほころばせる桃、青々とした新緑の柳、せせらぎのほとりに生い茂る草花など、春の情景が描かれている。柳の木陰に売り台が置いてあり、台の上いっぱいに並べられた鳥かごには珍しい鳥が入っている。その周囲には様々な玩具も置いてある。二人の貨郎(荷を担いで移動する物売り)がいて、一人は手にしたオウムを売りつけようとしている。売り台の前に子供二人を連れた女性がおり、はしゃぐ子供がオウムを欲しがって手を伸ばしている。人物の彩色は品よく艶やかで、服装も細部までよく研究され、表情も実に生き生きとしており、のんびりと静かな古代社会の暮らしぶりが感じられる。
北宋時代の名士黄庭堅など十数人が駙馬(職官名)の王詵の庭園に集って宴を催した様子を「西園雅集」という。この作品では参加者が五組に分けられている。それぞれを見てみると、蘇軾と李公麟、米芾らは書や絵を描いたり、石に題を入れている。阮(楽器の一種)を弾く陳景元は、劉涇、円通大師と話している。「西園雅集」は広く流布し多くの版本があり、本図は本院所蔵の仇英〈西園雅集図〉と同じ原画を元にしている。詩塘に隷書で「西園雅集図記」とあり、虞集の署名がある。絵の内容は明代楊士奇「東里集・続集」に見られるが、この作品についての記述ではない。趙孟頫の作とされているが、製作年代は明代だと思われる。
本作は白描墨画に属す。川のほとり青桐(アオギリ)の木陰に文士が集い、その内の一人は座って机の上の琴を弾き、三人の文士がそれを囲んで琴の音に耳を傾けている。その他にも四人の童僕がおり、一人は主人の側に立ち、香を焚いたり、茶をひいたり、酒を温めるなどしている。傍らに奇石と青々とした竹、周囲を囲う湘妃竹の欄干がある。構図は本院所蔵の〈伝宋人十八学士図〉に似ているが、本作には上流階級の邸宅の様子が描かれている。中央に立てられた画屏(絵をはめ込んだ屏風)の前に床榻(寝台)と長案(長机)が置かれ、机の側に官帽椅(椅子)があり、手前の香几(香炉を置く台)、長桌(長机)の上に香と茶の道具一揃いが置いてるなど、各道具の配置に工夫が凝らされている。画中の家具の様式から明代晩期の作品だと思われる。
周臣(1460頃-1535以降)、明代の画家、字は舜卿、別号は東村、呉県(現在の江蘇省蘇州)の人。山水と人物画のいずれにも長け、宋人の筆法を深く学んだ。工筆、写意共に独自の画風がある。
甯戚は春秋時代衛国の人で、家が貧しく車夫をしていた。甯戚が斉国へ行くと、思いがけず桓公が巡幸で訪れ、甯戚は牛に餌をやりながら角を叩いて歌った。それを聞いた桓公は甯戚が非凡な人物であることを見抜き、引見した後に丞相として召抱えることにした。本作には、甯戚が手に木の枝を持ち、牛の世話をしている様子が描かれている。全体に力強い筆遣いで、老木と垂れ下がる藤蔓は龍が舞い飛ぶかのようで、非常に生き生きとしている。
甯戚は春秋時代衛国の人で、家が貧しく車夫をしていた。甯戚が斉国へ行くと、思いがけず桓公が巡幸で訪れ、甯戚は牛に餌をやりながら角を叩いて歌った。それを聞いた桓公は甯戚が非凡な人物であることを見抜き、引見した後に丞相として召抱えることにした。本作には、甯戚が手に木の枝を持ち、牛の世話をしている様子が描かれている。全体に力強い筆遣いで、老木と垂れ下がる藤蔓は龍が舞い飛ぶかのようで、非常に生き生きとしている。
唐寅(1470-1523)、字は伯虎、呉県(現在の江蘇省蘇州)の人。弘治戊午年(1498)に南京解元となった。作画初期は杜菫と周臣の影響を受けたが、後に宋・元代の名家を広く学んで独自の画風を築き上げ、明代四大家の一人として後人に讃えられた。
本作は、唐代の名妓李端端が張祐に詩作を求めた故事を題材にしている。画中の美女は手に白い牡丹の花を持ち、屏風の前にしとやかに立っている。寝台に腰をかけた張祐は集中しているような表情で、彼女のための詩を考えているように見える。張祐の詩に「一朵能行白牡丹」という一節があるが、この絵を描写しているかのようである。
本作は、唐代の名妓李端端が張祐に詩作を求めた故事を題材にしている。画中の美女は手に白い牡丹の花を持ち、屏風の前にしとやかに立っている。寝台に腰をかけた張祐は集中しているような表情で、彼女のための詩を考えているように見える。張祐の詩に「一朵能行白牡丹」という一節があるが、この絵を描写しているかのようである。
仇英(1494-1552)、字は実父、号は十洲、太倉(現在の江蘇省蘇州)の人。もともとは漆工で、建物の彩色に長けていたが、後に画芸で身を立てるようになった。明代四大家の一人に数えられる。
本冊は計二十幅あり、伏羲から宋仁宗まで、名君の事跡が描かれており、一方の頁に顧可学(?-1560)の題記がある。顧氏が宮廷に献上して官職に就くため、その求めに応じて絵を描いたのだと思われる。全体に熟練の素早い筆遣いで、色調は濃い青緑を主に用い、時に金泥で縁取りするなど、艶やかで華麗な雰囲気に満ちている。
本冊は計二十幅あり、伏羲から宋仁宗まで、名君の事跡が描かれており、一方の頁に顧可学(?-1560)の題記がある。顧氏が宮廷に献上して官職に就くため、その求めに応じて絵を描いたのだと思われる。全体に熟練の素早い筆遣いで、色調は濃い青緑を主に用い、時に金泥で縁取りするなど、艶やかで華麗な雰囲気に満ちている。
李士達(16-17世紀)、号は仰槐、呉県(現在の江蘇省蘇州)の人。人物と山水画を描いた。画論に「五美」、「五悪」があり、高い評価を得ている。
本作には、笠をかぶって牛に乗る鍾馗とそれに随う四匹の鬼が描かれている。鬼は梅の枝、袋に入れた琴、二匹は書軸を持っている。画面上部の風に吹かれる柳の間を四羽の鵲(カササギ)が飛び交い、道端に青々とした竹が生えている。画絹のきめが粗く描線が引っかかっている。着色の他に更に墨が加えられており、全体に墨色が濃く重い。本院所蔵の〈坐聴松風〉や〈関山風雨〉などの画風に似ておらず、後人が名を騙ったものと思われる。
本作には、笠をかぶって牛に乗る鍾馗とそれに随う四匹の鬼が描かれている。鬼は梅の枝、袋に入れた琴、二匹は書軸を持っている。画面上部の風に吹かれる柳の間を四羽の鵲(カササギ)が飛び交い、道端に青々とした竹が生えている。画絹のきめが粗く描線が引っかかっている。着色の他に更に墨が加えられており、全体に墨色が濃く重い。本院所蔵の〈坐聴松風〉や〈関山風雨〉などの画風に似ておらず、後人が名を騙ったものと思われる。
呉彬、字は文仲、福建莆田の人、金陵(現在の南京)に寓居した。万暦年間(1573-1619)に書画で世に名を知られた。呉彬の描く人物は独特の姿で前人とは異なり、一派をなした。山水画の配置も古典に倣わず極めて斬新である。
本冊は計十二幅あり、一年を通した様々な行事が描かれている。作中の景物は意図的に変形させられており、独特の面白みがある。人物は陶人形のようで、樹木は丸く低く、折れ曲がった幹と枝に動きがある。全体に現実とは異なるが、よく見るといたるところに変化があり、呉彬渾身の傑作と言うにふさわしい。
本冊は計十二幅あり、一年を通した様々な行事が描かれている。作中の景物は意図的に変形させられており、独特の面白みがある。人物は陶人形のようで、樹木は丸く低く、折れ曲がった幹と枝に動きがある。全体に現実とは異なるが、よく見るといたるところに変化があり、呉彬渾身の傑作と言うにふさわしい。
題名は〈明人摹西園雅集図〉だが、描かれているのは「香山九老」である。本院所蔵の〈無款香山九老図〉に構図が似ている。松の巨木と岩石で切り割られたような画面、左上に巻物を眺める三人、下の方に周囲を見渡しながら会話する三人、中間の右よりに将棋に夢中になっている二人、一人の者もいれば、童僕を随えている者もいる。「香山九老」とは、唐武宗会昌5年(845)に、その当時74歳だった白居易と胡杲、吉旼、鄭據、劉真、盧真、張渾、狄兼謨、廬貞ら70歳を超えた友人八名が、白居易が晩年に暮らした香山に集ったことを指す。
焦秉貞(17-18世紀)、山東済寧の人。欽天監を務め、ベルギーの宣教師フェルビースト(1623-1688)と行動を共にしたことにより西洋画に触れた。焦秉貞が描く人物や建物には、立体的に凹凸を表現する西洋画の影響が強く表れている。康熙朝で初めて西洋画の技法を中国画に取り入れた宮廷画家である。
本冊は計八幅あり、この度の展覧会では第一幅から第四幅が展示される。仕女のゆったりとした姿が季節ごとに描かれている。背景の建築物には透視画法を用い、ぼかしに重きを置いた画面には立体感があり、中国絵画の伝統とは大きく異なっている。
本冊は計八幅あり、この度の展覧会では第一幅から第四幅が展示される。仕女のゆったりとした姿が季節ごとに描かれている。背景の建築物には透視画法を用い、ぼかしに重きを置いた画面には立体感があり、中国絵画の伝統とは大きく異なっている。
冷枚(17世紀後半-18世紀初頭)、字は吉臣、山東膠州の人。康煕年間(1662-1722)に宮廷に出仕した。絵画は焦秉貞に師事し、人物と仕女、山水、楼閣を得意とし、西洋の写生法を生かした。耕織図という題材は南宋時代初期から見られるようになった。男性は畑を耕し女性は機を織る古代の農耕社会の暮らしや、穀物の種まきから収穫して倉庫に入れるまでの過程、養蚕の桑の葉摘みから布を織り上げるまでの過程などが描かれている。清代康煕年間に焦秉貞は新しい絵を描くように命じられ、聖祖(清朝第二代皇帝)の題詩を序文とし、鏤版で印刷して臣下に下賜された。本冊は冷枚が模写したもので、表装に印刷された康熙帝の詩と序文がある。着色は格調高く典麗で、師の特徴がよく表れている。
唐太宗が秦王だった頃、府中には十八人の謀士(策士)がおり、唐太宗は皇帝に即位した後、閻立本に命じて十八学士図を描かせた。宋代以降は文人達の風雅な集いとして表現されることが多かった。姚文瀚は乾隆17年(1752)に本作を描き、稽璜が楷書で「十八学士賛」を書いた。本院所蔵の〈劉松年唐十八学士図〉と構図が同じである。着色は明るく秀麗で、用筆は精細でありながら力強い。人物にわずかに陰影が施され立体感があり、家具や器物は細部まで描き込まれている。
姚文瀚(1713-没年不詳)、北京の人。号は濯亭。乾隆年間に宮廷に出仕し、仏教と道教の人物を描いた。
姚文瀚(1713-没年不詳)、北京の人。号は濯亭。乾隆年間に宮廷に出仕し、仏教と道教の人物を描いた。
楊大章、乾隆年間に宮廷に出仕し、人物と花鳥画を描いた。本作は古代の町の様々な事物を記録したもので、右から始まり、まずは郊外の静かな農村風景が目に入る。町を囲む堀を越えて金陵に入ると、町の中は人と車で騒々しく、商店が軒を連ねている。物売りや使い走り、行き交う老若男女で大いににぎわっている。全体に明るく鮮明な色彩が施され、人物の表情や姿も生き生きとしており、細部までこだわっている。作者による款識によれば、乾隆56年(1791)の作である。本院所蔵の〈清院本清明上河図〉と同じく長巻に写実的に風俗を描いた代表的な作品である。
赤い衣服を纏った鍾馗が左手に持った鏡に自分の顔を映し、右手には烏帽を持っている。四匹の鬼の上に腰を下ろしている鍾馗の前を一羽の蝙蝠が飛んでいる。生まれつき醜い鍾馗がたまたま鏡に映った自分の姿を見て驚いている様子がユーモラスである。題名の「豊綏先兆」は「封祟仙照」の語呂合わせかもしれない。鏡を見る鍾馗を描いた現存作品はいずれも清代以降のもので、18世紀の高其佩〈鏡中鍾馗〉と方薫〈鍾馗対鏡〉が最も古い。本作の画法は両図とは異なるが、瑞祥とユーモアを表現している点は等しく、清人の手によるものと思われる。
徐操(1899-1961)、字は燕孫、号は霜江楼主、河北博陵の人。人物と仕女を専門に描き、画風は古風で美しく、学ぶ者は非常に多い。北平大学芸術学院、京華美術学院で教鞭を執った。
軍装に身を包んだ花木蘭が、郊外で馬を駆りながら弓を撃つ様子が描かれている。人物の輪郭線は美しく整い、色調も典雅である。背景の山々、泉と瀑布を描く筆遣いは力強く、明代宮廷絵画の特徴が伝承されている。民国23年、画家35歳の時の作品である。
軍装に身を包んだ花木蘭が、郊外で馬を駆りながら弓を撃つ様子が描かれている。人物の輪郭線は美しく整い、色調も典雅である。背景の山々、泉と瀑布を描く筆遣いは力強く、明代宮廷絵画の特徴が伝承されている。民国23年、画家35歳の時の作品である。