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展示概要

雄視鉅海─台湾古地図

1662年に鄭成功(1624-1662)がオランダの東インド会社を撃退し、台湾史における明鄭時代(鄭氏政権)の幕開けとなりました。この頃、清朝政府は域外の地に関してはほとんど把握できておらず、1666年頃に制作された満州語と漢語による「台湾略図」には、現在の台南鹿耳門の航路と赤磡城、承天府一帯が描かれているのみで、明鄭軍の配備に重きが置かれています。ところが、17~18世紀の接触後(康熙時代)になると、状況が大きく変わっています。国立台湾博物館所蔵「康熙台湾輿図」には、台湾西部の南から北にかけての自然や人文景観が描かれています。特に原住民のイメージや風俗に関する描写を見ると、清朝政府も台湾社会とその文化、地理的環境について、かなり深く理解していたことがわかります。その後、乾隆帝により移民政策が進められると、大勢の漢人が台湾に入植しました。18世紀中葉頃(乾隆時代)に制作された「乾隆台湾地図」を見ると、漢人の集落が600箇所以上あるほか、原住民の集落も300箇所を超えており、台湾の人口が飛躍的に増加したことがわかります。また、上部の余白に詳細に書き込んである「山中」、「山後」の原住民の集落名から判断するに、この当時、漢人たちの台湾島に対する理解は東岸にまで及んでいたと思われます。

天涯不問─水陸交通古地図

1368年、哈密王の使者が大量の「貢馬」を携えて都を訪れました。「哈密」─この嘉峪関の外、東南は肅州まで1、2千里の彼方に位置する西域の歴史ある国が派遣した使者らは、西北から帝国東南の応天府まで、一体どこをどう歩いて遙かな道のりをやって来たのでしょうか。「南京至甘肅駅鋪図」には、応天府から西北へと伸びる一本の道が描かれており、最後は沙州(現在の敦煌)に到達します。これは明代の主要な駅路網の一つ─「陝甘路」の交通路線図です。また、明代に制作された「四川省四路関駅図」には、成都都司を中心として、南北に伸びる4本の駅道が描かれており、明代に発達した各地域の駅路網が示されています。
陸路のほか、自然の水路を利用した水路交通は効率性が高く、コストも抑えることができました。中国一の大河である長江は、古くから多くの人々が往き来する、運輸や交通の要衝でした。清代に制作された「長江地理図」には、長江の中流と下流が描かれています。両岸の治水や兵備のほか、川面に浮かぶ多数の船舶も描かれており、水路交通の要だったことが示されています。また、「長江図」には、制作者の船旅での経験が描かれています。長江の河口から武昌の間にある河道の里程や水位、砂洲、暗磯の航路など、関連の交通情報が詳しく記されています。

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