玉の徳
紀元前2000~581年、即ち今から4000年~1400余年前、およそ2500年にわたる久しい歳月は夏・商・周・秦・漢・魏晉南北朝の六段階の時代を経て来ました。秦のように極めて短い時代や基本的には分裂していた魏晉南北朝などを除くと、主に夏、商、周、漢の4つの王室となります。各王朝は華西、華東からかわるがわるやってきて、双方の勢力も盛衰を経ました。文化面では徐々に融合の兆しを見せ、漢代にはほぼ一体化し、統一の新局面が現れました。こうした過程の中で、太古の先人たちは、美玉は特殊な「霊魂」を有しているという迷信を信じていましたが、社会の進歩に伴い人文主義が台頭し、儒学の説が興ると、玉も段々と道徳化されていきました。
「徳性」-この詞の元の意味は先天的に受けるを指し、善悪と道徳とは無関係でした。太古の昔、人々は上帝が(周代の初期は「天」と称した)神霊動物を派遣して生命力を氏族の始祖に賜ったのだと信じていました。このため、各種の動物をモチーフとした玉彫を身に付けました。美玉の「精氣」と動物の「法力」により、人と神の媒介になる他、更に自身が踏襲した神霊の賦与、即ち「徳性」を顕彰することができたのです。しかし、東周の時代の頃になると、人々はすでに玉飾りを帯びる本来の意義を忘れてしまいました。儒家は比較的理性的な態度で、美玉が各種の特性を有していると解釈していました。「君子」の象徴は仁・義・智・勇・絜等の美徳を擁することでした。「君子」-この言葉の本来の意は、「統治者」を指し、東周の時代にも儒家的理論体系の中で、「品徳高尚なる知識分子」に転化していました。
悠久な歳月の中にあって、周人が施行した「圭璧組配」は、その後の中国の玉礼制の核心となりました。漢の皇室は沛県から来ており、江南古越俗の「玉殮葬」は更に発展し極致に達しました。その源を域外とする辟邪、角杯が中国に伝えられた後、美玉を用いて彫刻し、磨きをかけ、更に中華の神秘的な要素を添えました。